時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「進化論」から見えてくる人類共通の脅威:国際法において誣告罪が必要である第一の理由

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。11月10日付本ブログにて、国際法におきまして、「誣告罪calumny」を設けるべきである点を指摘させていただきました。今回は、その理由を、さらに詳しく述べてまいります。
 
第一の理由は、国際裁判におきまして被告となった当事国には、自然法の法理、あるいは、近代裁判制度の原則からして、原告となる相手国に対し誣告の可能性を問う権利があることです。
 
国際裁判の歴史につきましては、詳しいわけではありませんが、個人と個人との関係において行われる加害と被害との関係を明確に判断し、加害者に対しては、その罪に応じた制裁の量を決定する役割を果たす、という一般的な裁判機能を、国家と国家の間に適用させたのが、国際裁判であるということになります。したがいまして、裁判において個人に認められている権利は、当然、国家にも認めるべきである、ということになります。
 
人類史を概観してみますと、11月10日付本ブログで、「モーゼの十戒」では誣告が戒められているという例を示しましたように、古今東西の裁判におきましては、偽証することによって、無実の人を有罪にするという‘悪巧み’は、しばしば行われてまいりました。無実の人が有罪とする行為は、善悪の判断からすれば、‘悪’ですので、誣告罪という罪が設けられ、偽証を行った人物は、有罪とされることになったのです。
 
このように、誣告の可能性がある以上、公平で公正な裁判を行うためには、被告が無罪を主張し、むしろ相手が誣告を行っていると主張、立証する権利が与えられていることになりますので、国際裁判におきましても、当然、被告となった裁判当事国家は、無実を主張する権利が与えられ、相手国が、誣告を行っていることを立証する権利が、担保されていなければならないことになります。
 
近現代におきましては、国際裁判所が設けられ、国際裁判が、戦争責任をも含めて、国家間の軋轢や紛争の解決の手段となっております。このことから、誣告罪の欠如は、問題であると言うことができます。善悪の判断能力が、人類の人類たる所以でもありますので、‘悪’をしっかりと封じ込めるような司法制度が、必要とされていることになるのです。換言いたしますと、現在の国際司法制度には、「野獣型人類 beast human」が跋扈する余地が残されているのです。
 
次回は、第2の理由について扱います。
 
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(続く)