時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

救い難き聖職者の心の闇

 聖職者とは、一般的には、神の道を説くことで、心の苦しみや悲しみから人々を救う尊い存在と信じられています。救いを求めて教会に足を運ぶ信者も少なくありません。しかしながら、救い難き心の闇に苛まれている聖職者、あるいは、宗教家も少なくないのです。

 特にヨーロッパのキリスト教教会では、上流階級の婚外子は教会に預けられるという慣習がありました。この問題は、昨日のブログで既に裕子が指摘しておりますが、その一方で、教会は孤児院の役割をも担っており、貧しさゆえに親から捨てられてしまった子も養育されております。教会とは、自発的に神への奉仕のために聖職者の道を選んだ者のみではなく、いわば、表にできない事情がある、あるいは、恵まれない境遇にある上下の子弟が一所に集う社会の暗部でもあったのです。

 婚外子として生を受けた聖職者は、キリスト教精神に反する親から生まれたという”原罪”を背負いつつ、自らの生涯をそのキリスト教に捧げるという矛盾に苛まされることとなります。これは、一生出ることができない”心の檻”であり、解き難い葛藤によって精神的な歪みが生じることは想像に難くありません。また、貧困ゆえに聖職者となった者の中には、スタンダールの『赤と黒』にも描かれるように、教会制度において自らの立身出世の野望を遂げようとした者も少なくなかったはずです。

 何れのケースでも、こうした聖職者たちの存在は、教会の偽善と権力志向の心理的背景を説明しています。今日でも、カトリックの司祭をはじめ、聖職者の犯罪行為がしばしば取り沙汰されていますが、聖職者や教会組織を有徳な善なる存在と決め込むのは、一般の人々にとりましては危険かもしれないのです。救いどころか、道連れとなり、この世の地獄に落とされるかもしれないのですから。

 こうした側面は、キリスト教に限ったことではなく、他の宗教や新興宗教にも見られますし、世俗の思想家や政治家の心の闇が人々を不幸に導くこともあります。今日、様々な宗教団体が政治の場でも暗躍しておりますが、真の世界史を解明するためにも、聖職者達、否、指導的な立場にある、あるいは、あった人の心の闇についても、距離を置いた視点からの客観的な分析が必要なのではないかと思うのです。

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