そして、インド亜大陸のパキスタン出身であり、資本・自由主義国である米国におきまして、社会・共産主義をオブラートに包んで変形させた階級循環説を唱えているラビ・バトラ氏Rabi Batraも、マルクート教(バビロニア系ユダヤ教)の黑ミサの司祭、すなわち、「ラビ」であると推測することができます。
社会・共産主義側の思想と資本・自由主義側の思想のどちらを選択いたしましても、「ウォリアーズ・コントロールWarrior’s Control」の社会となるように誘導されていることは、マルクス経済学や階級循環論などと称して「インテリの仮面」や「哲学の仮面」を被ったこのような思想は、実は極めて、動物的・原始的な思想であって、悪魔崇拝の一表現に過ぎないことを示唆しております。
そして、その根源には、戦争恍惚師の問題がある気がいたします。2017年8月27日付本ブログにて扱いましたように、マックス・ヴェーバーの『ユダヤ人の歴史』によりますと、ユダヤ人社会におきましては、「戦争恍惚師」なる存在が重視されております。戦時において、戦闘員から理性を奪い、積極的に残忍な戦闘行為に参加させるために、戦闘員を催眠にかけたり、洗脳することを専門とする職業と言えるでしょう。通常、麻薬などの薬物が使われる場合が多いそうです。
すなわち、『共産党宣言』が支離滅裂な内容でありながら、あたかも催眠にかかったかのように多くの人々が、その‘信者’となった理由は、カール・マルクスが、戦争恍惚師であったことによって説明することができるのです。階級循環論も同様であり、ラビ・バトラ氏のバトラが、「battle」に通じておりますように、「戦争恍惚師」の役割を担っていると推測することができるのです。
こうしたイルミナティーの目的は、イルミナティー革命である明治維新における“天皇”の位置づけにも窺うことができるかもしれません。『日本帝国憲法』における第三条の「天皇は神聖にして犯すべからず」、第11条の「天皇は陸海軍を統帥す」、第13条の「天皇は戦を宣し和を講し及諸般の条約を締結す」という文言、『軍人勅瑜』そして、『海行かば』の「大君のへにこそ死なめ、かえりみはせじ」とする歌詞は、明治時代にイルミナティーによってつくられた“天皇”が、戦争恍惚師である可能性を示していると言えるかもしれません(『海行かば』の歌詞は、『萬葉集』に収載される奥州で金山が発見された際に、大伴家持が先祖の功績を顕彰して詠った長歌)。
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(続く)