時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

幕末の年号「元治」と「明治」の関係:背後にイルミナティー?

本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。「明治」という元号が、“明朝による統治”という意味合いを持つことを踏まえますと、1864年の2月20日から1865年の4月8日まで、「元治」という年号が用いられたことが気に掛かります。
 
そもそも1861年に「享和」から「文久」への改元があったのは、1861年が、干支紀年法におきまして辛酉の年にあたり、辛酉革命説にもとづく大変革の年代であったからです(干支紀年法における易姓革命も含む政治的・社会的大変動の年)。すなわち、「辛酉改元」という辛酉革命を避けるための伝統的な改元が行われたからなのです(日本書紀紀年法の元年の紀元前660年も辛酉の年)。
 
我が国には、「辛酉改元」の他に「甲子改元」という改元もあり、1865年は、干支紀年法におきまして甲子の年にあたっていたのです(甲子の年は、辛酉の年に次いで政治的・社会的大変動の年とされていた)。
 
こうした伝統によって「元治」に改元されたものの、「元治」が“元朝による支配”という意味あいを持つことは、元朝の次の王朝が明朝であることにおきまして、明治維新との関連が推察されてまいります。明朝を開いた朱元璋は、黒いユダヤ系中国人であったと考えられますが、元朝も、「黒いユダヤ人」に実質的には操られていたような王朝です。本ブログにて、13世紀の“英国籍の黒いユダヤ人”であって、元朝に仕えた外交官、マスター・ロバートにつきまして扱いましたように、元朝の政治・外交政策、並びに、近隣諸国への征服にあたっての戦術・戦略などには、バビロニアユダヤ教の影響が色濃く見えるのです。
 
1863(文久3)年のイギリス軍の鹿児島砲撃によって、まずもって、薩摩藩イルミナティーの影響下に入り、翌1864(元治元)年の英仏など4カ国の艦隊による下関砲撃によって、長州藩イルミナティーの影響下に入ったと考えられます。さらに、1854年のユダヤ人であるペリーの来航以降、幕府もまた、徐々にイルミナティーの影響下へ入っていっていたのではないか、と推測することができます。
 
こうしたことから、年号は、イルミナティーの圧力によって「元治」に改められたのではないか、と推測することができるのです。イルミナティーの中心的勢力であるロスチャイルド家の元の家名が「カンKhan」であって、元朝を意識していたことが、「元治」という年号を思いつかせたのかもしれません。すなわち、「黒いユダヤ人」の国際秘密結社であるイルミナティーは、日本支配を元号によって表現しようとしたのではないか、と考えることができるのです。イルミナティーによる元号利用は、その後も続き、「慶応」を挟んで、1968年には、「明治」となしたのではないでしょうか。
 
元朝時代は、「黒いユダヤ人」は黒幕でしたが、明朝は皇帝の朱元璋自身が、「黒いユダヤ人」であったと考えられることは、明治天皇が「ユダヤ人(黒いユダヤ人)のようである」と評されたことと連動しているような気がいたします。

 
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(続く)