時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

ヒトラーとスターリンの間に密約があった?

本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。第二次世界大戦おきましては、全体主義を唱えるドイツ・日本・イタリアが枢軸国を形成しておりましたが、よくよくこの全体主義体制を検証してみますと、軍事体制以外の何者でもないことは、ヒトラー天皇ムッソリーニが、いずれもが軍服を好んだことによっても示されます(これに対して、民主主義・自由主義陣営の米国ルーズベルト大統領、英国チャーチル首相はスーツ姿)。
 
戦争の形態が、軍隊同士のみによる局地的戦闘の形態から、「総力戦」と称されましたように国民総動員の形態へと移行したことにより、「全体主義」という名の軍事体制が生じてしまっていたと言えましょう(国民総動員体制は、軍人と民間人の区別、軍事施設と一般施設との区別を曖昧としたために、民間人や民間施設も攻撃対象となり、空爆などにより多くの被害が出たのでは)。こうした国民総動員体制は、長く続けば続くほど、配給制や供出などによって、国民を家畜化・動物化させたはずであり、行く着く先は、強大な国家権力と家畜や奴隷の如き一般国民という構図をつくったはずなのです。
 
こうした国民総動員の全体主義軍事体制は、そのままそっくり、共産・社会主義体制であると言うことができます。このことは、イルミナティーの元に、枢軸国とソ連邦が、秘かに繋がっていた可能性を示唆しております。当時、5か年計画の失敗によりスターリンは失脚寸前であり、1941年6月のヒトラーソ連侵攻によって、国民の関心が外に向かわなければ、恐らく、スターリンは失脚していたと言われております。また、2019年2月11日付本ブログにて述べましたように、ソ連邦ヒトラーのアルゼンチンへの逃亡に協力していた可能性が高いようです。
 
このことから、見えてくることは、ヒトラーは、スターリンのためにソ連邦に侵攻し、その見返りとして、アルゼンチンへの逃亡の手助けをスターリンに要望していたのではないか、という疑いです(あるいは、ドイツの東半分のソ連邦への割譲も密約していた?)。その要望に応えるべく、スターリンは、1942年に英ソ相互援助条約を締結することで、表面的に連合国側に加わり、連合国軍という所謂“お墨付き”を得て、逸早くベルリンへ軍を進めたとも推測することができます。ヒトラースターリンは、互いに、窮地を救いあっていたということになるのです。
 

憶測の域は出ませんが、当たらずとも遠からずであり、イルミナティーの軍事全体主義体制維持への固執という要素は、第二次世界大戦における数々の矛盾点を説明しているのかもしれません。


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(続く)