時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

聖徳太子実在・非実在論争から見えてくる日本国の統合問題

 前回は、『隋書』に記録されていように、「日いずるところの天子」が実在していた以上、聖徳太子は実在したと言うことができるという点について述べさせていただきました。『時事随想抄』は政治ブログですので、政治ブログに相応しく、今回からは、聖徳太子実在・非実在論争から見えてくる日本国の統合問題(統合の時期も含めて)についてお話を進めてゆくことにしましょう。

 さて、『日本書紀』に従えば、「日いずるところの天子」とは厩戸皇子であって、聖徳太子であるということになります。すなわち、大和朝廷外交政策の一環として、万機摂政皇太子・厩戸皇子聖徳太子・多利思比孤)が隋朝に使を遣わしたということになります。すべての人々が、「日いずるところ天子」=厩戸皇子聖徳太子)とする等式に納得していたならば、聖徳太子非実在論が唱えられる余地はなかったかもしれません。

 ところが、研究者の間では、記紀の記述から離れて、九州にあった倭の一ケ国の王が、「倭王」を僭称して隋に使を遣わしたとする説が、有力説として唱えられております。「日いずるところの天子」=聖徳太子とする等式を否定していることにおいて、聖徳太子非実在論の論拠ともなっていると言えるでしょう。換言すれば、大和にあった厩戸皇子と九州にあった「日いずるところの天子(多利思比孤)」は別人ということになり、聖徳太子として崇敬されてきたのは、「日いずるところの天子(多利思比孤)」と厩戸皇子のどちらであるのか、ということになってしまいます。仏教政策に重きを置く人々は、聖徳太子像として法隆寺を建立した厩戸皇子が強くイメージされるでしょうし、対中対等外交という事跡に重きを置く人々は、聖徳太子像として「日いずるところの天子(多利思比孤)」が強くイメージされるでしょう。

 この問題は、当然ながら、大和朝廷の他に九州にも別の王朝があったのか否かという問題とつながってきます。すなわち、聖徳太子実在・非実在論争には、七世紀初頭において倭国(日本国)は統合されていたのか否かという問題がかかわってくるのです。我々日本人は、記紀によっておおよその歴史的流れを理解していながらも、まだよくわかっていない部分があり、そのまだ解明されていない肝心要の部分が、日本国統合の経緯なのです。この問題が、日本人に自らの歴史に対する自信を失わせ、聖徳太子非実在説のみならず、日本史に関する様々な否定説に対して有力な反論ができない原因ともなっているのです。

 記紀神話によれば、日本国ははじめから一国としてまとまっていたことになります。おそらく、それは記紀が成立した時代において、一国として既に統合されていたことにもとづく記述であって、史実としては、複雑な経緯をとおしての国家統合があったはずなのです。その複雑な国家統合の経緯が解明されなければ、いつまでたっても、古代史論争は決着を見ないことになります。日本古代史にこうした‘隙’が生じていることによって、聖徳太子非実在説も含め、現在、日本史は否定されつつあります。そろそろ、日本国統合の歴史を明らかにし、我が国の来し方を再確認しなくてはならない時期に来ているのではないでしょうか。古代・中世史の一研究者として、文献・考古史料を駆使して、なるべく読者の皆様が納得されるような日本国統合説を、本ブログにおいて展開してまいりたいと考えております。

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