伝天武・持統天皇合葬陵の八角形の意味(パート4)
今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。
八角堂(夢殿)が蘇我一族の古墳の意味を持つことは、伝天武・持統合葬陵が八角墳であることの意味と関連があるのかもしれません。そこで、法隆寺東院伽藍の建立の経緯について、少し詳しく見てみることにしましょう。何かしらのヒントを見つけることができるかもしれません。
『法隆寺東院縁起』によりますと、法隆寺東院伽藍は、律師・行信が、厩戸皇子(聖徳太子)の子の山背大兄王の斑鳩宮址が、苔むして荒廃している様を嘆いて、天平11(739)年に、阿倍内親王(聖武天皇の皇女。後に孝謙・称徳天皇として即位)に、この地に伽藍を建立することを願い出たことによって、「上宮王院」とする寺号において建立されることになった寺院です(平安時代頃より、「上宮王院」は、法隆寺の東院伽藍として位置付けられるようになっています)。
斑鳩宮を厩戸皇子(聖徳太子)より引き継ぎ、「上宮王家」と称されていた山背大兄皇子一族は、皇極2(643)年に、蘇我入鹿の急襲を受けて滅んでしまいます。天平11年は、それからおよそ90年も経った年代であり、なぜ、90年も経ってから、上宮王院が建立されたのか、といった点につきまして、疑問であると言えるでしょう。
そこで、天平11年という年代が、天平元(729)年に発生した奈良時代最大の疑獄事件である長屋王の変によって滅んだ長屋王の冤罪が明らかとなった天平10(738)年の翌年であることが注目されてきます。一族郎党が滅んだという点において、山背大皇子の滅亡と長屋王の変とは、通じるとする研究もあり、東院伽藍の建立には、長屋王が関連している可能性があるのです。
(続く)