時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

伝天武・持統天皇合葬陵の八角形の意味

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。日本書紀紀年法からは、しばし離れまして、今日のテーマは、天武・持統天皇合葬陵として伝わる陵墓が八角形墳であることについてです。

 新聞報道によりますと、奈良県明日香村に所在する伝天武・持統天皇合葬陵につきまして、これまでの研究調査、ならびに、今月21日に行われた立ち入り調査によって、「二上山の石材を用いてつくられた五段築成で、八角形墳である」という結論が得られたそうです。

 八角形でつくられていること、そして、二上山の石材が用いられていることは、この合葬墓の被葬者が、本当に天武天皇持統天皇であるのか、といった問題も含めまして、興味深い点であると言うことができます。そこで、まずは、八角形墳の意味について考えてみましょう。

 古来、八角形墳には意味があったようです。古代史上有名なクレオパトラの妹で、一時期プトレマイオス13世の共同統治者としてエジプトの女王であったアルシノエの墓は、八角形につくられています。我が国におきましても、吉野ヶ里遺跡の中心的墳墓が、やはり八角形となっています。

 そして、八角形といいますと、法隆寺の東院伽藍の金堂で、「夢殿」と称されている御堂が、八角形であることでしょう。夢殿の中央には、八角形の厨子があり、そのなかには、本尊として、「救世観音像」と称され、聖徳太子をモデルとしたとされる仏像が納められています。

 聖徳太子が執務を行っていた斑鳩宮の跡地に、天平時代となってから東院伽藍が建立されたという経緯を踏まえますと、救世観音像のモデルは、聖徳太子ではないか、ということになるのですが、仏像の様式と東院伽藍創建の歴史的背景から、この仏像の造仏の時期は、7世紀中葉であり、この仏像の本当のモデルは、天智天皇天武天皇の母である皇極・斉明天皇の前夫である高向王(用明天皇の子、もしくは孫)ではないか、と推測することができます(拙著『救世観音像 封印の謎』(白水社・2007年)をご参照ください)。

 救世観音像は、相当、複雑な歴史的背景を有しているらしく、明治時代に、アーネスト・フェノロサ岡倉天心によって封印を解かれるまでの1千年以上にわたって、白い長い布に巻かれた状態で、厨子のなかに納められ、秘仏とされてきた謎の仏像です。その仏像を本尊とする御堂が、八角形であることにも、大きな意味があると推測することができるのです。


(続く)