時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

狗奴国は「熊襲」か「国」か

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。

 前回は、遅くとも2世紀代に狗奴国という国が、九州中南部域に成立していたことについて、お話しました。そこで、読者の皆様は、九州中南部域と言ったならば、「熊襲の国」ではないか、とおっしゃられるかもしれません。『日本書紀』も『古事記』も、九州中南部域を「熊襲」と呼んで、しばしば反乱を起こし、大和朝廷に帰順しない勢力として扱っているからです。たしかに「狗奴」は、「くま」ともよめそうです。「魏志倭人伝」は、「くま」を「狗奴」と表記したという仮説は成り立つ余地がありそうです。

 しかし、その一方で、私は、5月7日付本ブログにて、狗奴国の「狗奴」が、「くに」とよまれた可能性について述べました。すなわち、狗奴国の人々は、自国が政治・行政機構を整えた立派な国家であることを強調するために、自国を「国(くに)」と呼んでいたのではないか、と考えられるのです。国東半島は、狗奴国の最東にある半島であったことから、「国東(くにさき)」半島と名付けられたのかもしれません。

 また、「大和は 国のまほろば たたなずく、青垣山 こもれる 大和し うるわし」という「国偲びの歌」の「国」も、狗奴国を意味していると考えられるのです。

 では、なぜ、「くま」説も成り立つのかといえば、他の2ヶ国、つまり奴国や投馬国は、特に狗奴国との戦争中においては、敵国の狗奴国を「国」という国家を意味する尊称で呼ぶことを避けたのではないか、と考えられるからです。奴国も投馬国も、それぞれ自国を立派な国家と捉えていたにちがいないのですから。そこで、狗奴国を「熊」や「熊襲」と呼んだという仮説は成り立つのです。

 『日本書紀』と『古事記』は、3大国が統合した後に成り立っているため、その編纂過程において、どの国の視点から歴史を描くのか、という問題があったと考えられます。『日本書紀』は、推古二十八(620)年に聖徳太子によって編纂された『天皇記』と『国記』をもととしながらも、その後、何度も加筆・修正されています。『古事記』も、天武天皇の時代に編纂が開始されながら、途中中断し、40年の歳月を経て元明天皇の時代、和銅5(712)年に完成しています。政治状況の変化によって、歴史を描く視点には、何度も変化があったかもしれないのです。

 このように考えますと、かつて敵であった国に対する蔑称が、そのまま残ってしまった、ということは大いにありえるのです。

(次回に続く)。