時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

寛容は不寛容に対して寛容でよいの?

 本日の日経新聞の『春秋』欄に、テロの問題性に関連して、宗教戦争の歴史から導かれた教訓についての記事が掲載されておりました。文学者の渡辺一夫氏曰く、「寛容は不寛容に対して不寛容であってはならぬ」を原則とすべきというのです。

 言い換えますと、”寛容は不寛容に対して寛容であれ”ということになるのですが、この原則を実践しますと、寛容側は、テロリストの言い分をそのまま認め、奴隷制の復活も、住民搾取も、宗教的残酷刑も、全て認め、領土さえ明け渡さなければならなくなります。加えて、当コラムでは、同じく渡辺氏の言葉として、”現行の秩序に対する懐疑とその犠牲になっている人々に思い至り、かつ、常に「改善と進展」を志せ”とする主張をも紹介しているのですが、寛容側の秩序の改善を、不寛容側が許すわけもありません。確かに、コラムの筆者の述べるように、”氏の掲げた灯は心のどこかに置いておきたい”と言うのであれば、それはそれで済まされるのでしょうが、今日のテロをめぐる状況は、氏のような理想主義者が決めつける善意の”原則”こそが、事態を悪化させているように思えるのです。

 そもそも、寛容が不寛容に寛容であれば、戦いは起きないものの、寛容が不寛容に従属する結果となるのみです。実際の歴史上の宗教戦争とは、不寛容と不寛容とが正面からぶつかる対立であったが故に、双方とも戦いに倦みつかれた果てに、寛容の精神に至ったのではないでしょうか。寛容が不寛容に対して寛容であれば、永遠に、不寛容は、寛容の精神に至ることはないのではないかと思うのです。
 
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