時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

イスラム移民がもたらす‘数の論理’によるイスラム国家化の脅威

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。イスラム教の教えが持つ、上下関係を容認して、その‘上’に位置付けられることを理想視する思想や、両性の不平等を容認する女性蔑視思想などが、今日の先進国がその国家理念として掲げている‘国民個々人の基本的権利を相互に尊重した社会の実現’と相いれない思想である点につきまして、これまで指摘してまいりました。
 
移民受け入れ国は、おおよそにして、国民個々人の基本的権利を相互に尊重するといった普遍的な政治的・社会的価値を国家理念とする国々であることから、イスラム教徒に限らず、メンタリティー上の問題を有する移民の増加は、社会的摩擦と対立を生じさせる結果となります。
 
さらに、こうした移民問題は、将来的には、イスラム教が政教一致の宗教であるだけに、民主主義・自由主義国家におきまして、国家体制や国家理念を揺るがす脅威となってくることになります。民主主義には、‘数の論理’という落とし穴があります。一般的に、民主主義・自由主義国家では、国民の多数が同意するような思想を反映させた憲法、法律、制度が、普通選挙制度や代議制を通しまして、その国の国家体制として採用・維持されるという特徴があります。このシステムは、国民の大多数が、基本的権利を相互に尊重する体制をよしとしている間は、よく機能するのですが、国民の大多数が、‘基本的権利を相互に尊重しない体制’をよしとするようになりますと、国家体制が、‘基本的権利を相互に尊重しない体制’に変更されてしまう、という欠点があるのです。
 
すなわち、移民の増加によりまして、有権者過半数が、‘基本的権利を相互に尊重しない体制’をよしとするイスラム教的なメンタリティーの人々に占められてしまいますと、イスラム教徒の候補者が代議士に当選する結果となり、憲法改正などを通しまして、政教一致イスラム国に変じてしまう危険があるのです。現在のイスラム教の諸国と同様に、いつしか、ミナレットが全国に建てられ、決まった時間に、コーランを読む抑揚の着いた声がスピーカーから聞こえてくるようになってしまうかもしれないのです。イスラム教は政教一致ですので、騒音公害であると政府に訴えても、却下されてしまうことになります。
 
ベルギーなどでは、年間に出生した子供に付けられた名前で、最も多かったのは、「ムハンマド」であったそうですので、イスラム移民の増加は、近い将来、大きな政治問題となってくると予測されます。
 
日本では、イスラム教徒の移民は少ないのではないか、というご意見もあるかもしれませんが、中国・韓国・朝鮮の人々も‘基本的権利を相互に尊重しない体制’を好む傾向にありますので、将来の日本が、‘基本的権利を相互に尊重しない体制’の国となる可能性がありますので、メンタリティーの違う人々が流入してくることは、問題となるのです。

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(続く)