時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

『竹取物語』が語る決裁通貨問題

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。『竹取物語』に登場する5貴公子が宝物を求めて行き着かねばならない場所が、インド亜大陸以西の地(「天竺の仏の御鉢のある場所」・シルクロード)、中国大陸(「火鼠の皮衣のある場所」・東シナ海ルート)、アメリカ大陸?(「金・銀・真珠からなる木の生い茂る東の海中の蓬莱山」・北太平洋ルート)、オーストラリア大陸?(「南海の龍の頸の玉のある場所」・南太平洋ルート)、ユーラシア大陸北東部?(「燕の巣の子安貝のある場所」・ステップロード(その終着点は燕))といった具合に、全世界を網羅していると推測されることは、これらの各地を結ぶ世界規模の貿易ルートの開発が、5貴公子に課せられた課題であったとも推測することができます。
 
このようなことは、7世紀の持統天皇の時代に、実際にあったとは思えないのですが、それが、そうとも言えないのです。7世紀は、日本国と百済国とが同盟関係にあった時代です。『日本書紀』には、7世紀の百済国が、日本国に駱駝、孔雀、オウムなどを献上したとする記事が見えますように、百済国は、当時国際交易の中心となっていたシルクロードや南回りの海上交易ルートとの繋がりの強い国であったようです。こうした点から、7世紀は、日本国が世界地理と世界貿易に目を向け出した時代であったとも言えるのです。
 
日本書紀』によりますと、7世紀には、百済新羅などの諸国から、朝貢使が頻繁に日本国を訪れております。日本国は、朝貢によって大いに利益があったであろうと想像してしまいがちなのですが、実際には、その逆であったと考えることができます。朝貢品を上回る返礼品が必要とされたからです。従いまして、輸入品が増えれば増えるほど、その対価(返礼品)もまた増加せざるをえないことになります。
 
日本国には、ヒスイや倭錦などの特産品がありましたので、輸入品の対価としてこれらの特産品が物々交換として用いられていたのかもしれません。(中国の歴代王朝の行った朝貢貿易も、基本的には物々交換であって、常に、中国側の赤字)。しかしながら、何と言いましても、砂金が、その返礼品に使われていたと推測することができます。さらには、商人たちによる私的交易にも砂金が用いられたと推測することができます。世界のいずれの地域におきましても、砂金は、希少価値のある貴金属として通用したからです。
 
すなわち、朝廷、並びに、商人達による国際貿易におきまして、砂金は、返礼品や輸出品としての一面の他に、金貨という役割も果たしていたと考えることができるのです。従いまして、朝廷は、より多くの砂金を必要としていたことでしょう。そして、通常、砂金は、竹筒に入れて保管して用いられていた点は注目されます。『竹取物語』におきまして、竹の中から金貨が出てくるという表現は、砂金(金貨)の入った竹筒を意味していると推測することができるのです。
 
さらに、708年の和同開珎(銀銭)に先立つこと、7世紀に無紋銀銭という銀貨が鋳造されていた点も注目されます。7世紀には、砂金に加えて、銀貨も用いられたようなのです。中国銭での決済は、日本国内には中国銭が流通していなかったことから困難であるため、金貨(砂金)と銀貨がいわば“決裁通貨”となっていたのではないか、と推測することができるでしょう。
 
無紋銀銭を発行したのは天智天皇であるとする説が有力です。天智天皇の娘である持統天皇の時代(687~697年)を含めた708年までの間は、国際貿易への関心の高まりを背景とした金貨・銀貨の時代であったかもしれないのです。言い換えますと、決裁通貨問題の解決のために、金貨(砂金)の集積や銀貨の鋳造が必要とされていたことになります。5貴公子や天皇が、かぐや姫に求婚したというストーリ展開は、この点において理解されてくることになります(砂金とかぐや姫を朝廷権力の内に取り込めば、国際決済が可能となり、より多くの品々を輸入できる)。
 

竹取物語』は、シルクロード、ステップロード、東シナ海ルートなどの国際貿易ルートのすべてを日本国へと繋げるとともに、新たなルートを開発する計画が試みられていた時代を描いているのかもしれないのです。シルクロードの終着点とされる正倉院に伝わる夥しい数の文物は、まさに、こうした時代の息吹を今日に伝えているのかもしれません。


 

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(続く)