時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

民主・自由・法の支配VS全体・管理・独裁主義の問題は続いている

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。民主・自由・法の支配と全体・管理・独裁主義という2つの思想の問題は、古くて新しい問題と言えます。
 
 紀元前480年に、民主・自由・法治主義を標榜する都市国家アテネと全体・管理・独裁主義を標榜するペルシャ帝国との間で戦われたサラミス海戦は、民主・自由・法の支配の勝利を象徴する歴史的事件として、とみに知られております。また、第二次世界大戦における連合国側の勝利も、民主・自由・法の支配の勝利を象徴する出来事として人類史上に位置付けられる場合も多いと言えましょう。


 では、民主・自由・法の支配と全体・管理・独裁主義の思想的違いのポイントはどこにあるのか、と言いますと、「国民があって国家がある」のか、「国家があって国民がある」のかという発想の違いにあるのかもしれません。


民主・自由・法の支配は、「国民があって国家がある」という発想にもとづいており、国民集団を構成している個々人が、如何にしてよりよく生きることができるのか、といった点を実現するための思想です。国民の代表による国家運営(代議制)、言論・表現・学問・思想・宗教の自由などの個々人の基本的な自由の保障、法による基本的権利の保障、そして法のもとにおける平等が、国是となります。アテネは、古代にあってまさにこの思想を実現させたような国家を建設しており、その後の人類史に与えた影響は計り知れません。
 
 一方、全体・管理・独裁主義は、「国家があって国民がある」という発想にもとづいており、国家の強大化、もしくは、生き残りを実現するための思想です。国家さえ強大化、もしくは、生き残ればよいということになりますので、国民個々人の自由や基本的人権は、大きく制限されることになります。ペルシャ帝国が、「王の目」、「王の耳」という国民管理組織を国中に配置いたしましたように、国民は、国家の手足の一部に過ぎないことになってしまうのです。この考えでは、しばしば「国家=君主」という構図となり、「国家=君主」の強大化や生き残りのために、国民がしばしばその犠牲となることがあります。
 
 この問題は、第二次世界大戦によって既に決着が着いているかのようでありましたが、昨今、こうした理解が危ぶまれる事態が世界各地で発生しているようです。すなわち、よくよく観察してみますと、民主・自由・法の支配VS全体・管理・独裁主義問題は続いているのです。しかも、今般の対立は、世界の多くの国々において内部分裂の要因ともなっております。全体・管理・独裁主義国家側の香港問題のように、明らかに表面化している内部分裂問題の他に、イルミナティーによって「日本の黒人国化500年の計」が進められている日本のように、民主・自由・法の支配国家側における全体・管理・独裁主義化への動きと、それへの抵抗という内部分裂も、特徴としていると言えるでしょう。
 
 こうした内部分裂の発生原因は、人々が、民主・自由・法の支配と全体・管理・独裁主義のどちらの思想を持っているのかによるものですので、ここで、一度、どちらの思想が、人類にとりまして、よりよい思想であるのかを考えてみるべきなのではないでしょうか。



*本ブログ『時事随想抄』は、8月30日、もしくは31日に、はてなブログへ移動する予定でおります。引き続き読者となっていただけましたならば、幸甚でございます。

 
よろしければ、クリックをお願い申し上げます。
 
 


(続く)