時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

戦争か侵略容認か-迫られる究極の選択

 中国の尖閣諸島に対する姿勢は、エスカレートの一途を辿っており、昨日の全人代での温家宝首相の海洋権益に関する演説は、周辺諸国に対する”侵略宣言”のように聞こえました。左翼の平和主義者の人々は、この機に及んでも、戦争反対を唱えるのでしょうか。

 戦争反対の掛け声は、平和という言葉と結びついて、耳に心地よく響きます。しかしながら、戦争反対が、侵略の容認を意味するとしますと、それは、悪への妥協を意味します。一般社会においても、自分自身が略奪行為に合いそうになっているにも拘わらず、”暴力はいけない”の一点張りで、その行為を許そうとする人は殆どいないはずです。誰もが、警察を呼んだり、正当防衛で自らの身を守ろうとするのではないでしょうか。中国は、尖閣諸島に関する国際法上の正当な権利はないのですから、その行動は、掠奪者のものと何らの変わりもありません。侵略を認めることは、倫理に反しているのですから、この場合、戦争に訴えてでも侵略を阻止することが、倫理に叶った行動と言うことになります。

 戦後一貫して、平和主義者の人々は、戦争反対を金科玉条のごとくに訴え続けてきましたが、現実には、戦争反対=道徳的行為ではなく、戦争=道徳的行為である場合もあります。中国という無法国家によって、日本国が究極の選択を迫られている現実に、左翼の平和主義者の人々も、誠実に向き合うべきと思うのです。

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