時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「奴国」・「狗奴国」・「投馬国」の3大国が出現した経緯と理由

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。

 2013年5月21日付本ブログの記事にて、「「伊都国」から分派した「奴国」「投馬国」「狗奴国」:伊ざなぎ尊は「伊都国」を象徴」と題しまして、日本において最初に国家といえるような政治・行政機構を整えたのが「伊都国」であり(糸島半島に所在)、その「伊都国」から「奴国」、「狗奴国」、「投馬国」の3大国が出現したと述べました。

 前回の記事では、3大国のうちの「奴国」についてのお話をはじめてしまいましたが、なぜ、3大国に分派したのかについては、述べていませんでした。この点は、日本国の統合までの紆余曲折の歴史を特徴づけ、また、日本国の統合理念とも深く関わってまいりますので、その点について、詳しく説明してまいります。

 「魏志倭人伝」には、「其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼(その国は、もとは男子が七八十年間王となっていたが、倭国に争乱が起こり、互いに攻撃しあうことになった。長い年月を経て、一人の女子を王となした。名は「卑弥呼」といった。)」とあります。

 この文章から、九州北部における「伊都国」の段階、ならびに、「奴国(伊都国+奴国)」の段階においては、歴代の王は男子であったと推測することができます。「奴国(伊都国+奴国)」は、天照大神に象徴されていますが、はじめから、女子が王であったわけではなかったようです。「奴国(伊都国+奴国)」は、倭諸国およそ100ヶ国の盟主として、謂わば‘安定政権’を維持していたのでしょう(西暦57年の「漢倭奴国王」金印は、「奴国(伊都国+奴国)」の繁栄ぶりを示しています)。また「魏志倭人伝」は、こうした経緯を踏まえて、「其國本亦以男子為」と表現したのでしょう。

 こうして70年間もしくは80年間、男子王の時代が続いたのですが(一代、もしくは数代)、どうやら倭諸国の間で、争乱が発生したようです。その時期につきましては、『隋書』に「桓靈之間」とあり、また『梁書』に「漢靈帝光和中」とありますので、後漢桓帝(在位:146-167)と霊帝(在位:167-189)の頃、2世紀後半と考えられます。その争乱の当事者は、3大国でしょう。すなわち、3大国の出現は、2世紀後半と考えられ、当初から、3大国は、不仲であったとも推測されるのです。言い換えますと、「奴国(伊都国+奴国)」における内部対立が、3大国を出現させるとともに、「倭国大乱」へと繋がったと推論できるのです。

 では、争点は何であったのでしょうか。それは、男子を王となすべきか、それとも女子を王となすべきかをめぐるものであった可能性があります。



(次回に続く)。