時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

韓国政府竹島公式サイトの真偽パート4

 韓国政府の竹島公式サイトのQ4は、「韓日間の「鬱陵島争界」の当時、獨島が日本の領土では
ないことを明示した「鳥取答弁書」とは何ですか。」というものです。

 1693年に発生した竹島一件後、日朝交渉が、対馬藩を交渉の窓口として開始されます。この時、対馬藩は、朝鮮国王に対する文書において「本国竹島」と表現し、対馬藩の『朝鮮通交大紀』にも、朝鮮人が「「我隠州竹島に来り」と記しています。このことからも、Q2とQ3に関連して述べたように、日本国にあっては、竹島は、当然、隠岐(隠州)に所属すると見なされいたことが伺えます。日朝交渉は、1695年10月に一時中断しますが、「鳥取答弁書」とは、この時、江戸幕府が、竹島と松島について鳥取藩に対して問い合わせに対して、回答した文書です。確かに、サイトに掲載されているように、

一 竹島(鬱陵島)は因幡伯耆(現在の鳥取県)に属する島ではない(竹島因幡伯耆附属にては無御座候)…
一 竹島(鬱陵島)、松島(竹島)及びその外両国(因幡伯耆)に属する島はない(竹島松島其外両圀之附属の島無御座候事)

と見えます。韓国側は、この文書を以って、幕府は、日本国の領土ではないことを確認した上で、その後の日朝交渉で両島を朝鮮領と認めたと主張しています。しかしながら、最初の回答に対する幕府の質問状は、「因州伯州江(へ)附候竹島はいつの頃より両国江(へ)附属候哉。」とあり、その続きに、「先祖領被下候以前より之儀候哉…」と続いてゆきます。韓国のサイトでは、最初の文しか掲載しておらず、幕府が、過去の経歴に関して質問していることを伏せています。上記の回答文にも続きがあり、大谷・村川両家による渡海の経緯が述べられています。この文書は、両家が幕府の許可の下で事業を開始する1618年以前において、竹島は、鳥取藩の支配地ではなかったことを示しているに過ぎないのです(日本領であることを否定しているのではない…)。所属する藩を確認しているのであって、実のところ、当時、隠岐(隠州)は、幕府直轄の天領であり、隠岐を預かる松江藩にも同様の質問を行っています。

 日朝交渉の結果、江戸幕府は、竹島鬱陵島)を朝鮮領とを正式には認めなかったものの、日本人の渡航を禁止します。ただし、渡航禁止の対象は、あくまでも竹島鬱陵島)であり、松島(現竹島)については、交渉の議題にも上っていません。朝鮮側の史料である「粛宗実録」でも、日朝交渉に際しては、鬱陵島にしか言及していないのです。この時、韓国側が、鬱陵島領有について根拠として『東国興地勝覧』を使用したそうですが、この書に付されている「八道総図」では、于山島は鬱陵島の西側に描かれており、明らかに松島(現竹島)とは位置が違っているのです。以後も、竹島一件時に、幕府の筆頭老中だった浜田藩主松平周防守康任が「竹島鬱陵島)は日の出の土地とは定め難いが松島なら良い」と述べたように、竹島は、隠岐の松島として日本国に留まるのです。

 いささか長くなりましたが、以上より、韓国の公式サイトの「これで、韓日間の紛争は決着し、鬱陵島争界により鬱陵島と獨島が韓国の領土であることが確認されました。」とする一文は(Q4ではなく概説での表現)、明らかに虚偽なのです。

 よろしければ、クリックをお願い申し上げます。

<a href="https://blog.with2.net/in.php?626231">人気ブログランキングへ</a>