時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

”神の視点”がない共産主義思想

 共産主義が厳しい批判に晒され、”悪魔の思想”とまで酷評されるのには、それなりの根拠があります。共産主義に見られる倫理的欠落の一つは、”神の視点”が欠如していることです。

 『聖書』が、時代や場所に拘わらず、多くの人々に感銘を与えてきたのは、そこに、”神の視点”を見出すからかもしれません。ユダヤ人の歴史をベースにしているにも拘わらず、『聖書』は、特定の一民族たるユダヤ人からも超越した客観的な視点から人間社会のあり方を説いているからです。神の存在論についてはここでは深く立ち入らないものの、”神”という超越性を備えた存在に対する信仰は、中立公平な客観性に対する揺るぎない信頼でもあります。即ち、あらゆる主観的な利害から離れた位置から、人間社会、そして、一人一人の人間を見守り、善き社会と人々の幸せのための指針を示すもの、それこそが、”神”として認識されているのです。一方、ヘーゲルの弁証論をプロレタリアート独裁の正当化に批判的に応用した共産主義には、客観性が入り込む余地がありません。歴史の最終段階にあって、全ての対立を止揚した形で出現するプロレタリアートとは、特定の利益を代表する、主観の塊でしかないからです。共産党一党独裁制を堅持している中国が、絶対に自己の非を認めず、全ての責任や罪を他者に押し付け、ルールを守ろうともしないのは、比類なき存在として自らを絶対視しているからです。そこには、客観的な視点からの善悪や正邪の判断はなく、あるのは、主観に根差したエゴイズムだけです。

 ”神の視点”、すなわち、公平中立な”客観的視点”の欠如は、共産主義思想に限ったことではなく、古今東西を問わず、人間社会に散見されます(普遍宗教も自己絶対化に堕する場合がある…)。今日、共産主義を含めて、思想というものに評価を下す時、”客観的な視点”の有無こそ、判断の基準とすべきではないかと思うのです。

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