時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

チベット弾圧に見る共産主義の無慈悲

 マルクスは、資本主義に対して、社会の自然な絆を切り裂き、人間阻害を生むものとして激しく非難しました。しかしながら、自らの理論もまた、人間を物質的な存在に還元してしまったことにおいて、無慈悲な人間を大量に作り出ししまったのではないか、と思うのです。

 唯物論には、信仰や宗教が心に息づく余地はありません。そうして、自らが絶対と信じる体制において人々を支配するためには、人間の思考活動を停止させ、思想の領域そのものを自らの手に独占しようとしたのです。この目的のために、信仰や宗教のみならず、魂というものまで消し去らなくてはなりません。

 チベット弾圧の様子が漏れ伝わるにつけ、共産主義政権の無慈悲さが炙り出されているようです。しかも、弾圧の対象が、暴力を否定し、命を尊び、慈悲を説く仏教徒であったことは、何と、悲劇的なことでしょうか。共産主義が、魂や心を育てることを怠った結果、野蛮で暴力的であり、かつ、支配欲に取りつかれた恐るべき国家が立ち現れることになったのです。

 共産国家ではない我が国にあっても、チベット仏教が危機にある中に救いの手を差し伸べようとせず、自らの利益を優先させようとしている宗教団体は、慈悲の心を忘れ、命を粗末にしたことにおいて共産主義と同罪です。姫路市天台宗圓教寺のお坊様方が、勇気をもってチベット救済を訴えたと報じられましたが、宗教界には、原点に返って、蛮行を繰り返す中国に対して慈悲の心を説いていただきたいと思うのです。中国の行為を許すことは、自らの信じる信仰の否定でもあるのですから。