時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

靖国参拝-恐るべし”奴隷の平和”容認論

 本日掲載された日経新聞の「春秋」では、評論家であった亀井勝一郎氏が、昭和16年の日米開戦に際して”奴隷の平和より王者の戦争を!”と雑誌で訴えたことを取り上げて、ナショナリズムの暴走を諌めておりました。しかしながら、安倍首相の靖国参拝を批判したいがために、奴隷の平和を容認したのでは、人道に対する罪を擁護するようなものなのではないでしょうか。

 今では、奴隷は法的には存在しておりませんが、奴隷制を敷いてきた歴史のあるアメリカで、奴隷の平和容認論を唱えましたならば、相当に厳しい批判を受けるはずです。また、1943年のカイロ宣言では、”朝鮮の人民の奴隷状態”が、日本国に対して朝鮮半島の放棄を求める理由とされています(その実態は、奴隷状態ではないのですが…)。加えて、”慰安婦”も、諸外国では”性奴隷”とも表現されており、日本国が、韓国の慰安婦捏造に対して憤慨するのも、奴隷化が非人道的な犯罪行為を意味するからです。もちろん、当時のアメリカは、戦争によって日本国民を奴隷化する意図はなかったのでしょうが、”奴隷化されるぐらいならば、潔く戦うべし”とする考え方は、決して否定されるべきものではありません。それどころか、チベット人ウイグル人に対する非人道的な扱いを見ておりますと、中国に対して戦わずして屈することは、即ち、日本人が過酷な状況に置かれることを示唆しているのです。

 奴隷の平和を認めますと、軍事力に優る諸国は、弱小の国に対して、”戦争するよりは奴隷になれ”と迫ることでしょう。国内においても、奴隷制が復活するかもしれません。”殺されるよりは奴隷になれ”と…。戦争は絶対悪ではなく、奴隷化といった別の悪を阻止するための手段であることを、忘れてはならないと思うのです(奴隷化の方が、絶対悪なのでは?)。

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