時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

‘謀略史観’から集団的自衛権の問題を眺めてみれば

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。今日も、歴史についてのテーマから離れまして、政治や外交について意見を述べさせていただきます。
 
歴史を研究しておりますと、‘謀略史観’という問題に、しばしば直面することになります。すなわち、人類の歴史は、謀略に満ちており、歴史上の様々な事件は、表面的に見える諸要素のみだけではなく、謀略の存在を仮定して、分析したほうが、事件の真の目的や原因、そして、背景がよりよく見えてくるという史観が、‘謀略史観’であると言えるでしょう。このような謀略史観は、‘ひねくれている’ようではありますが、混迷を深めている今日の国際情勢におきましては、国際秩序の維持や自国の安全を確保するためには、重要であるのかもしれないのです。
 
さて、昨今、集団的自衛権の問題が、国会やマスメディアにおいて論議されておりますが、この問題も、謀略史観から眺めてみますと、議論が混乱、混迷している原因がわかってまいります。
 
邦人避難民を乗せた米軍の船舶などが、攻撃を受けることを想定し、集団的自衛権の行使を容認して、自衛隊を出動させるべく、法整備を進るというのが、政府見解による集団的自衛権の行使の問題であるようです。果たして、このような想定への対応案としての集団的自衛権の容認は、国際秩序の維持と自国の安全を確保するに資する正しい方策なのでしょうか。
 
まずもって、このような状況が生じるのは、韓国と北朝鮮間に発生することのあり得る‘第二次朝鮮戦争’なのではないか、と推測することができます。‘第二次朝鮮戦争’が勃発いたしますと、米韓軍事協定によって、米国と韓国は、紛争当事国となりますが、我が国は、当事国とはならないからです。確かに、表面的には、この地域で紛争が勃発した場合、邦人を避難させてくださっている米軍の船舶を自衛隊が援護することは、道義的、倫理的に正しいことです。
 
しかしながら、ここで、自衛隊を派遣してしまいますと、我が国もまた、紛争当事国となってしまうのです。その結果、日本列島が、北朝鮮から直接攻撃を受ける可能性も生じてしまい、また、戦線が拡大する可能性もあります。些細な軍事的・政治的事件が、‘集団的自衛権’によって、第一次世界大戦第二次世界大戦といった大戦につながったことは、歴史の教訓の示すとおりです。
 
集団的自衛権’によって、‘第二次朝鮮戦争’に巻き込まれ、気がついてみれば、我が国のみが滅んでいるという結果となることも否定できません。そして、このような結果となることが、最初から、‘謀略’によって仕組まれていた可能性すらあるのです。このように考えますと、‘第二次朝鮮戦争’を想定した政府案は、‘最も危険な案’であるのかもしれないのです。
 
それでは、‘第二次朝鮮戦争’が勃発した場合、どのようにして、国際秩序と自国の安全を確保しながら、邦人保護を行えばよいのかといいますと、米軍に依頼しないことが肝要であり、1)我が国自らが、中立国として、邦人の保護に赴く、2)赤十字などの国際的な中立機関に邦人保護を依頼する、3)紛争当事国ではない第三国に邦人保護を依頼するといった案が、良策であるということになります。
 
集団的自衛権は、敵性国を軍事的に牽制することとなるため、安全保障上、大きな効果のある権利でると言うことができます。しかしながら、その行使のしかたを間違えますと、戦争への導火線となって自国の滅亡にもつながるという‘両刃の刃’の権利でもあるのです。したがいまして、‘集団的自衛権’は、米国本土が、直接、攻撃を受けた場合や、我が国の領海・領空を防衛している米軍が、敵性国からの攻撃を受けた場合に限定して、行使すべきではないかと考えられるのです。
 
 
(続く)