時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

北野武氏の『新しい道徳』-野蛮が復活する?

 北野武氏の最近の著作である『新しい道徳』については、先日、道徳を個人レベルに引き下げることの危険性について批判的な記事を書きました。本日の記事では、『新しい道徳』に潜むもう一つの危険性について指摘しておきたいと思います。

 北野氏が、道徳という概念について、刑法上の禁止行為、社会的に望ましい行動規範、並びに、儀礼的な慣習…を区別しているのかは定かではないのですが、『新しい道徳』には、道徳は時の権力者に都合がよいものに過ぎない、とする主張があるようです。こうした考え方は、”道徳とは、他者を縛るためにある”とする中国大陸や朝鮮半島の道徳観に見られる独特の発想であり、必ずしも一般的な道徳概念とは言えないように思われます。道徳は権力者が恣意的に国民に課す規律とする見方は、先の記事で批判した道徳の個人化=私物化に他ならなず、この考え方に潜む危険性は、権力者が変われば道徳も変わるとする結論を導き出してしまうことです。例えば、歴史を見ますと、過去にあっては、土下座や三跪九叩頭の礼といった不条理な儀礼的作法は、道徳的に正しいとされてきました(儒教でも、客人に自らの子を饗する行為は道徳的に正しいとされている…)。もちろん、現在では、平等原則や人としての尊厳を損ねる行為は道徳的に正しいとは見なされなくなりましたが、これらの儀礼的慣習が道徳性を失った理由は、誰もが、人間の一般的な良心に反すると感じていたからなのではないでしょうか。つまり、為政者が変わったから道徳が変わったのではなく、為政者によって定められた”道徳”が、全てではないにせよ、不道徳であったからこそ、内面の良心としての真の道徳に立ち戻った、あるいは、精神的な成長を遂げた考えられるのです。

 仮に、為政者による道徳の支配を認めるならば、北野氏は、過去の不条理な”道徳”の復活を認めざるを得なくなります。その結果、北野氏の行動や発言などは、非道徳的な行為として真っ先に取り締まりの対象となるかもしれません。道徳を人類の良心の問題、あるいは、精神的発展過程において捉えませんと、野蛮の復活を許すことになるのではないでしょうか。

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