時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

‘冊封’とは中国大陸の諸王朝による「一方的周辺国認識思想」

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。スプラトリー諸島問題などをめぐる中国共産党政権側の「もとは、中国領であった」という主張が、所謂‘妄想’であることにつきまして、第一点として、「中国」という名の存在しない幻の1国家を想定・前提としている主張であって、その幻の1国家が存在していない以上、「もとは、中国領であった」とする主張も成り立たない点は、すでに指摘させていただきました。この第1点を以って、中国共産党政権側の論理は破綻しているのですが、本日は、第2点についても扱っておくことにしましょう。第2点は、チベット問題などを考える際に重要であるからです。
 
中国大陸にあった古代の諸王朝の間におきましては、‘冊封’という「一方的周辺国認識思想」がありました。外国が、こうした思想を持つ中国大陸の王朝に使節団を派遣しますと、「天子の徳を慕ってやってきた野蛮国(蕃国)」として位置付けられ、冊封国、属国として見なされる、というわけです。
 
歴史学上、一般的に、冊封国はみな、中国王朝の属国であった、というように解釈されているために、中国共産党が領土問題も含めまして、周辺諸国に影響力を及ぼす口実ともなっている、と言うことができます。独立国であったチベットウイグルに、いつのまにやら、中国共産党政権が影響力を強めていった理由の一つも、こうした「もとは、冊封国であった」という主張にあるのです。しかしながら、これもまた、妄想である点は、以下によります。
 
 第一に、今日の歴史学におきましては、教育界における左翼思想の影響から、中国共産党にとって都合のよい歴史教育が行われており、あたかも、「使節の派遣国=属国」であるかのような教育がなされております。しかしながら、この構図は間違いであり、実際には、必ずしも「使節の派遣国=属国」ではない、ということです。その理由は、‘冊封体制’とは、中国大陸の王朝側が、「一方的周辺国認識思想」にもとづいて、一方的に妄想した体制であるからです。すなわち、今日でも、外交使節団の派遣は、相互に、そして、頻繁に行われておりますように、使節の派遣には、他意がない場合もあったと考えられます。使節の派遣国は、恐らくは交易目的で、外交使節団を派遣したにも拘わらず、中国大陸の王朝側は、一方的に、「使節の派遣国=属国」と認識して、派遣国を属国として位置付けてしまうのです。
 
この点を示す好例は、西暦1793年における英国使節マカートニーの北京訪問です。この際に「歓迎朝貢使」という垂れ幕があり、英国使節団の誰も、何と書いてあるのかわからなかったのですが、使節団員の子息の7歳になる少年のみが、漢字を習得しており、その意味が、「貢物を持ってやってきた属国使を歓迎する」であることを他の使節団員に教えることができたために、英国使節団は大いに憤激したそうです。
 
 第二に、外国側の使節団の派遣目的の多くは、交易という経済的利益にあったことです。中国大陸の諸王朝は、外国からの使節団をより多く来訪させることで、その権威を増そうと、外国使節団が持ってきた物品よりも、はるかに高価な物品を答礼として与えるという政策を行っておりました。このために、多くの周辺諸国が、使節団を派遣するようになった、というのが、歴史の真相なのです。
 
 「使節の派遣国=属国」という刷り込み教育が行われていることも、中国共産党政権が、妄言を吐くことのできる余地を与えているわけですので、中国史に対しまして無知であってはならない、と言うことができるでしょう。

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(続く)