時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

組織悪は倫理の麻痺

 よく、集団が関わる犯罪事件などが発生した際に、”個人としては良い人なのに・・・”という評を耳にすることがあります。どうして、人間は、集団になると悪事を働いてしまう傾向を持つのでしょうか。もしかしますと、政官界で頻発している汚職や宗教組織による犯罪もその一例なのかもしれません。

 集団が個人を悪に誘う理由としては、まず、個人的な責任感の集団への埋没を挙げることができます。ひとりで犯罪を行う場合には、その責任はすべて自分が負うことになりますので、刑罰を受けるそれなりの覚悟は必要です。しかしながら、集団で犯罪を行う場合には、個人の責任意識が希薄となり、他者に転嫁できるという錯覚を生むことになるのです。つまり、悪に対する無責任の感覚が蔓延するのです。

 第二に、組織にいるだけで、メンバーが、その行動パターンを無意識のうちに身に付けてしまう場合もあります。本日、”3人以上が同じ行動をとると、他の人も同調してしまう”、という内容のコラム記事が新聞に掲載されていましたが(本日日経夕刊池谷裕二氏の「三人よれば言うがまま」)、集団内部では、犯罪や悪事にあっても同調が起きやすいのです(”みんながしているから”・・・)。

 第三に、いざ組織の犯罪や悪事がばれそうになりますと、今度は、連帯責任を恐れたメンバーが協力してこれを隠そうとします。隠そうとすればするほど、組織の悪は深まることになります。

 組織一般において以上の点が指摘できるのですが、公権力や宗教が関わりますと、さらに、組織悪は手に負えなくなります。公権力は、権力を濫用して隠ぺいに努めようとしますし、宗教は、神様や仏様を持ち出して自らの悪しき行為を正当化しようとするからです。組織の陥りやすい悪い側面をよくよく考え、自らの良心に手を当てて健全な判断を心がけること、この内省こそ、組織悪から決別できる方法なのではないでしょうか。