時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

高校教師入学式欠席事件の議論に見る詭弁

 埼玉県の公立高校において、教師が勤務先の高校の入学式を欠席する一方で、自分の子の入学式に出席した事件は、未だに賛否両論の議論を呼んでいます。
 
 ところで、この議論では、批判派にあっても、信じがたい詭弁を唱えている人々がいるようです。憲法には、「すべての公務員は全体の奉仕者であって一部の奉仕者ではない」とあり、地方公務員法でも、「すべての職員は、全体の奉仕者として公共の利益のために勤務し、且つ、職務の遂行に当たっては、全力を挙げてこれに専念しなければならない」とする服務規定が置かれています。これらの条文は、公の優先を定めたものなのですが、議論の中には、”自分の子”もこの規定のいう”全体”に含まれると主張する意見があるのです。仮に、自分の子も”全体”に含まれるならば、”一部”なるものは存在しないことになり、この条文そのものが空文化します。さらに、この考えを突き詰めますと、自分自身も”全体”に含まれることになり、公私の区別は消え、”全体”の名の下で権力の私物化が許されることになりかねないのです。権力の私物化を防ぐためにこそ、これらの条文が設けられているのですから、公私の区別を取り払う解釈はあり得ないことです。
 
 こうした詭弁を弄している人々も、無責任論からの批判と同様に、結論としては教師の行為は正当ではないとしていますが、結論に達するまでのプロセスは、論理的に見せかけてその実非論理的であり、明らかに間違っています。こうした詭弁がまかり通るようでは、日本国も、近い将来、隣国のような無責任国家になるのではないかと心配になるのです。
 
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